川路の歴史

飯田市川路地区は、伊那盆地の南端、南・中央両アルプスに挟まれ、名勝「天龍峡」「天龍奥三河国定公園」の最北に位置している。標高360mから550m、東西2.4km、南北3.6km、面積6.28㎢。天龍川の氾濫原からなる平地と小段丘に人々は居住し、古くは農耕で縁をつなぎ、近代になって「日本三大桑園」の地として世に知られた「養蚕の郷」であった。
川の路と記される名称の由来は、「河路」であり、その初見は南北朝時代貞和2年(1346)の『三浦和田文書』とされているが、16世紀になって「下河路郷」となり一郷一村の歴史を重ねてきた。地名から忍ばれるように、対岸の龍江、北方の竜丘とともに天龍川の治水に苦闘し、昭和になって水力発電所による環境の変化により幾多の大洪水が発生、辛酸を重ね、天龍川との共生共存を求め続けてきた地域である。

戦国時代から江戸時代の年表
1573(天正元) 癸(みずのと)酉(とり)8月満水(満水とは洪水の呼称)
1700(元禄13) 下川路村81人が竹佐代官より200両借り入れて川除普請
1715(正徳5) 未(ひつじ)満水(6月18日)で「川除」が流出する未曽有の被害。領主立ち合いの復旧工事で下川路:時又の領分を7:3とした
1719(享保4) 亥(い)満水(8月15日)久米川尻273mに堰切・蛇篭・水刎・堅枠を築く
1753(宝暦3) 今田村と境界争論発生、宝暦10年まで江戸幕府評定所に出訴対立
1760(宝暦10) 津島神社牛頭天王を勧請奉祀「川路祇園囃子」開始
1769(明和6) 今田村との境界争論再発、境界定杭標柱を立てる
1789(寛政元) 酉(とり)満水(6月18日)村の大半が水没
1816(文化13) 下川路村の人口925人(男性459、女性466)
1865(慶応元) 未満水以来150年目の大満水
明治・大正時代の年表
1874(明治7) 下川路・時又両村の川除勘定金781円余り、新境界制定示談
1885(明治18) 6月大洪水、留々女沢南堤防決壊、田畑流出26町歩
1903(明治36) 1月 大石堤防工事起工、12月完成。長さ300間(540m)、高さ5間の護岸工事の経費35,000円余(内村民の負担23,000円余)、作業員延べ16,000人。
1905(明治38) 今村信夫村長、県に「水害予防組合」設立を具申。7月4日設立総会。地権者86名組合区域(水害地)26町4反1畝19歩(約26.4ha)天龍川流域では先駆的発足
1920(大正9) 天竜川電力会社が、伊那谷に8か所の発電所を計画
1922(大正11) 火災に見舞われた川路小学校、5区の低地(田中地籍)に新築決定、翌年開校
1925(大正14) 県知事、天竜川電力会社に発電用水利使用を許可
昭和の年表
1927(昭和2) 4月1日「下川路村」を「川路村」と改称
1930(昭和5) 天竜川電力会社と「発電用天竜川河水使用並びに水路開鑿に関する契約書」を締結
1932(昭和7) 泰阜ダム着工
1936(昭和11) 泰阜ダム竣工・発電開始
1945(昭和20) 10月 大洪水、浸水142戸、川路国民学校も床上浸水し、翌年2月かわじ村議会は初の「ダム堰堤撤去請願」長野県知事は翌年、川路・龍江地先の河床2m以上の浚渫を厳重命令
1948(昭和23) 建設省天竜川改修工事事務所 発足
1950(昭和25) 6月11日 洪水発生、翌12日抗議の村民大会、13日村議会がダム撤去を決議
1951(昭和26) 中部電力㈱、日本発送電会社より権利義務を継承
1953昭和28) 第一回天龍峡夏期大学開校
9月30日 現在の人口2,999人
1955(昭和30) 中部電力に昭和60年までの水利権を許可
1957(昭和32) 飯田市長他6村長、水利権許可取消訴訟提訴
流域10ヵ村の「ダム撤去期成同盟会」発足、この問題が広く地域に拡大した
1959(昭和34) 市町村と中部電力間で昭和33年までの「水害問題協定」成立し訴訟取り下げ
1961(昭和36) 3月31日、川路村が飯田市に合併
「36災」発生 水位20.26m、浸水家屋225戸、被災者1,039人、被害総額5.8億円余、ダム撤去期成同盟会再結成
養蚕飼育戸数253、繭産出量61,531kg、酪農家60戸、飼育頭数120~130頭
3災により飼育農家激減
1963(昭和38) 小学校が高台の上平に新校舎建設して移転(児童数297人)
1964(昭和39) 5月29日 竜狭中学本校舎が完成し、川路校の生徒のみ竜丘仮校舎から移転
1965(昭和40) 4月1日 竜峡中学校3校(川路・龍江・三穂)が完全統合(生徒数465人)
12月 老人ホーム川治寮が上平地籍に開寮
1966(昭和41) 4月 川路支所が新庁舎に移転
1967(昭和42) 下伊那農業高校竜峡分校廃校
1968(昭和43) 川路一区が被災家屋の移転により竜丘に編入
川路保育園が下農竜峡分校後で開園
1969(昭和44) 天龍峡が天龍奥三河国定公園に指定、2代目つつじ橋渡り初め
竜西一貫水路、川路8区まで開通竣工
皇太子・同妃殿下(現、上皇ご夫妻)、川路地区の治水事業を視察
1970(昭和45) 2,000トン越流堤防工事完成
川路美術展(文化祭の復活)
1974(昭和49) 川路農業協同組合が解散し、飯田市農業協同組合発足
1975(昭和50) 川路保育園上平地籍に新築開園(定員60人)
1981(昭和56) 東京川路会発足
1983(昭和58) 「58災」発生
1984(昭和59) 飯田市天竜川環境整備公社発足
1985(昭和60) 水防組合、国側の治水対策案を受け入れ、国県市と中電間で治水4者基本協定成立し、水利権更新を許可、一部住民が水利権取消訴訟を起こし抵抗
建設省中部地方建設局「三地区治水計画」具体方針を公表
1986(昭和61) 川路地区地権者28人が測量での立ち入りを拒否、松沢太郎市長が「災害の万が一論」を文書で表明
1987(昭和62) 川路・龍江・竜丘三地区の治水対策推進連絡協議会発足
姑射橋上流で舟下り船転覆し、乗客3人死亡事故発生
1988(昭和63) 水防組合、臨時総会で再度事業推進を再決定

昭和末期の桑園 三六災害 1969年8月26日ご来峡 皇太子さま・同妃殿下(当時)
(左から|昭和末期の桑園|三六災|1969年8月26日ご来峡 皇太子さま・同妃殿下(当時))

平成の年表
1989(平成元) 被買収地権者組合、治水事業推進委員会、将来計画準備会など相次いで発足
天龍峡温泉毎分450リットルの湯湧出
1990(平成2) 第一回「川路の明日を考える研究集会」開催
1991(平成3) 12代市川団十郎来峡、天龍峡夏期大学の特別講師として講演
飯田市農協と飯田中央農協が合併し「みなみ信州農業協同組合」発足
1992(平成4) 2月1日 治水対策事業起工式
川路地区将来計画策定委員会発足
1993(平成5) 川路地区 都市計画区域に編入
1994(平成6) 川路地権者組合設立
三遠南信自動車道インターチェンジ中心杭打ち式
1995(平成7) 水利使用許可取消訴訟 原告敗訴(2000年最高裁判決でも敗訴)
1996(平成8) 2月9日 築堤工事起工式、天龍峡エコバレープロジェクト「地元ワーキングモデルプラン」の答申書発表
2001(平成13) 川路土地管理組合設立、天龍峡ホテル廃業
2002(平成14) 災害危険区域に関する条例の廃止、川路地区計画承認
天竜川総合学習館「かわらんべ」オープン
川路・龍江・竜丘三地区治水事業完工式典 新川路駅前広場で挙行
川路用水パイプライン維持管理組合発足
2003(平成15) 川路地区治水対策事業完成式典挙行
川路統一祇園まつり開催
2006(平成18) 天龍峡地域再生マネージャに金谷俊樹氏就任し「天龍峡百年再生プラン」作成
2007(平成19) 天龍峡観光開発㈱が解散、温泉宿舎を飯田市が買い取り天龍峡温泉交流館となる
川路自治区が発足し「自治協議会」から「まちづくり委員会」に移行。市役所支所は自治振興センターと改称
川路基本構想・計画・土地利用計画検討委員会発足
花の里信州大そば祭り開催
2008(平成20) 天龍峡百年再生プロジェクトスタート
三遠南信自動車道 飯田山本ー天竜峡インター間完成
天龍峡百年再生館オープン、昭和乙女の会発足
川路地区屋外広告物特別規制地域に指定
2009(平成21) 川路さくら並木愛護会発足
2010(平成22) 天龍峡盆踊り復活(天龍峡をどりの前身)
2011(平成23) 中電初の業務用ソーラーシステム「メガソーラーいいだ」が完成し、発電を開始
川路将来目標・将来計画・土地利用計画策定
3月11日 東日本大震災発生 福島の一時避難者受け入れ、義援金など援助活動を実施
2014(平成26) 市政懇談会で川路保育園に未満児・延長保育を要望
2016(平成28) 延長保育について地域で運営することを協議、まちづくり委員会総会で2019年4月開始を決定(各戸1,000円の協力金を支出)
2017(平成29) 4月 川路保育園 長保育を開始
川路居住憲章検討委員会策定作業開始
2018(平成30) 7月14日 全地区統一祇園まつり
川路居住憲章について、全地区で説明会を実施

県道桐林大明神原線 右岸桜並木植樹祭 花の里 そば祭り 復活になった盆踊り平成22年9月
(左から|県道桐林大明神原線|右岸桜並木植樹祭|花の里 そば祭り|復活になった盆踊り平成22年9月)

祇園祭

川路祇園の豆知識

起源は約260年前
川路の祇園まつりは、4 区留々女沢川の脇にある津島神社の祭礼。津島神社の総本社 は愛知県津島市にある。その津島様が川路へ祀られたのは約260年前。 江戸時代のこと。水害で悩まされていた下川路村と時俣村(今の竜丘時又)は、川を はさんだ今田村(今の龍江今田)と境界争いが絶えず、江戸評定所にまで申し出て訴 訟をしていた。宝暦(ほうれき)8年(1758年)、江戸に出向いた庄屋たちが戻った時 に尾張(今の愛知県)から津島神社を勧請(かんじょう)したと『川路水防史』に記されて いる。一方、『川路村誌』には、宝暦10年(西暦 1760 年)、8年がかりの争いが決 着したことから、当時の藩主に願い出て津島神社を分祀することにしたと記されてい る。 1758年から数えて260周年となる今年に今回の統一まつりを行うこととした。

津島神社は疫病退散の神を祀る
仏教の生まれたインドでは祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神として、牛の頭をした「牛 頭天王(ごずてんのう)」が信仰されていた。津島神社は悪疫を除けてくれる神としてこの 「牛頭天王」を祀っていて、水難で苦しむ村民の願いから川路に迎えられた。京都祇 園の八坂神社も同じく「牛頭天王」を祀る。

祇園囃子
川路津島神社の祭礼に奉納する祇園囃子が始まったのは宝暦10年と言われる。住民 が屋台を曳いて中に乗った演者がお囃子を奏でていた。中平(今の 4 区)で始まった 屋台・囃子はその後(明治22年頃には)各区でも演じられるようになり、昭和初期 には、各区の屋台が嶋地区(旧川路村1区であったが今は時又地区)の庚申様から4 区津島様まで次々と曳航される宵祭りは賑やかだったという話である。 お囃子は幾つもの曲がある。区によって少しずつ違いがあるが、「旭新五郎」「鳶娘」 「宮神楽」「吉野」「群雲」「花間」「正札」「三好」「若柳」「鷺娘」「七賢人」「大間」「松 風」「片囃子」などがあるという。お囃子の道具は、大太鼓、小太鼓、鼓(つづみ)、笛、 三味線、鉦(かね)などである。 ながらく7月 14 日に宵祭り、15日に本祭りを行っていたが、近年になって7月第 2土曜日の開催になった。また、また屋台・囃子などの装備が途絶えた区もあり、新 たに6区のお神輿、7区の龍神の舞、8区の獅子舞が区民の手で行われてきている。

各区に名をつけて
川路村内を八つの区に分けて呼ぶようになったのは、明治22年の市町村制度実施か らである。当時の青年会的組織「若連」が、区毎に源氏名(げんじな)をつけて競い合っ たのが今に残る呼称である。いわく、2区「寿(ことぶき)」、3区「英(はなぶさ)」、4 区「旭(あさひ)」、5区「甲子(きのえね)」、6区「古城(こじょう)」、7区「相生(あい おい)」、8区「千登勢(ちとせ)」と呼ぶ。祇園まつりで使われるほか、公民館事業での 旗印になっている。ちなみに、現在は存在しないが1区は「曙(あけぼの)」と言った。

川路津島神社260周年記念チラシ

川路の芸能

各地区の芸能をご紹介します。

龍神の舞(7区)